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「しょうがない」ということ
大野光明
昨年11月頃から現在まで、僕は、「沖縄」をめぐって起っている様々な出来事について、自分は何ができるのだろうとジタバタする毎日だった。11月15日から、沖縄島北部の東村・高江では、新しい米軍ヘリパッド建設工事が再開された。工事ではなく話し合いを求める地元の住民の方々に対して、日本政府職員は超至近距離から拡声器で威嚇したり、工事用の重機を振りかざしている。また、12月28日の深夜4時、日本政府は辺野古の米軍新基地をつくるために必要な環境影響評価書を、沖縄県庁に「提出」した。「提出」とはいうものの、深夜にこそこそとやってきて、守衛室にどさっと置き捨てたそうだ。日本政府は「沖縄の理解を得ながらやっていく」と何度も言うけれど、やっていることといえば、沖縄の人たちを見下して、従わない場合は、「暴力」で押さえつけるというものだ。「理解を得る」とは「沖縄を屈服させながらやっていく」ということなのだなと思った。
日本政府のあまりのひどさに、防衛省に抗議の電話をかけてみた。僕が何を伝えても、防衛省の広報課職員の男性は「はい、承りました」の一点張り。彼はマニュアルで決められたとおりに返事をするだけ。僕が求めても、名乗りさえしない。彼個人の人間性みたいなものは抑えられていて、機械のように、日本政府が決めたことを粛々とこなしているのであった。
電話を切ったあと、どうしようもない徒労感に襲われた。けれど、ふと思ってしまった。僕たち一人一人は、防衛省の広報課の職員の彼とかわらないのではないか。いや、限りなく同じではないか、と。
たとえば、日本社会に生きる僕たち一人一人は、沖縄で反対の声があがっていようとも、「日本政府、ましてやアメリカ政府が決めたことだから、しょうがない」という理屈で、沖縄への軍隊押しつけに見て見ぬふりをしている。政府が決めたことだから、しょうがない。沖縄への軍隊押しつけ、しょうがない。アフガニスタンやイラクでの戦争支援、しょうがない。過疎化に苦しむ土地への廃棄物最終処分場や原子力発電所の押しつけ、しょうがない。しょうがない、しょうがない、しょうがない・・・。
気づいてみたら、この世の中には、「しょうがない」でいっぱいなのだ。「しょうがない」、だから、決められたとおり、機械として働き、生きる。娯楽や趣味はそのための息抜きのようなものかもしれない。そして、僕たちの「しょうがない」という一言には、さまざまな「暴力」がはりついていることも明らかだ。
だから、僕は、「しょうがない」という思考停止をやめてみることが必要だと思う。「しょうがない」という自分自身のつぶやきに、まず、「なぜ?」という疑問をはさみこんでみよう。そして、自分自身で見て、聞いて、考えること。「しょうがない」に占拠されている、自分の頭と体を、自分のものにしなおすことだ。そうすれば、この世界は少し違って見えてくる。沖縄の人たちの思いが、違って聞こえてくるはずだ。
追伸: 以下のようなイベントを企画中です。ぜひ、アンチ「しょうがない」の場になればと思うので、ぜひお越しください。
・2月19日(日)18時〜
「緊急ゆんたく!辺野古・高江と私・たち――沖縄の激動の「今」をつなぐ」@カフェパラン(JR二条駅前)
・2月22日(水)18時頃〜
高江・辺野古についての京都緊急デモ(仮)