あなたは「原発ジプシー」という言葉を知っているだろうか。原発の中で起きる定期点検作業、蒸気発生器の交換、炉心まわりや配管のひび割れ事故の対応…これらの作業を、被曝による日々の健康不安に怯えながら担っているのはそのほとんどすべてが下請け・孫請けの下で働く労働者たちだ。業者は、労働者の被曝管理に厳しい注文をつければ仕事がもらえないため、率先して現場に労働者を送り込む。現場でアラームメーターを外させたり、数値をごまかす。除染作業などの最も厳しい被曝労働に従事するのは多くの季節労働者・日雇い労働者たちである。全国からかきあつめられ、最低辺で被曝労働に従事する人々は、原発から原発を渡り歩く「原発ジプシー」と呼ばれた。最も厳しい被曝労働に従事するこれらの人々は、重層的な下請け構造の中で労働者はすさまじいピンハネをされ、多くの労働者が被曝して死んでいった。
沖縄では、高い失業率と内地との経済格差を背景に、昔から、多くの出稼ぎ労働者たちが原発ジプシーとなっていった。今年の9月26日付の琉球新報では、雇用保険も受けられず、誰にも被曝の責任がとられないなかで、多くの原発労働者が「偽装請負」の形で働かされてることが報道された。ずっと昔から原発労働者を取り巻く劣悪な状況は変わっていない。記事の中で証言している沖縄県出身の男性はこう語る。「原子炉内とか線量が高い所は県出身者が多く、浜岡だけで200から300人はいた。名前を見てすぐ分かった」数多くの沖縄の人々が、原発に送りこまれ、被曝労働を強いられてきた歴史がある。現在、福島原発で事故の「収束」作業に従事する人々の中にも、沖縄の人々をはじめとして、日本社会で歴史的に差別されてきた様々な国籍や民族性を持った様々な立場の人々がいるだろう。なぜか?原発というのは差別でまわっているからだ。原発は労働者の被曝と死によって成り立っている。海外のウラン採掘の現場から、核廃棄物の「処理」に至るまで、原発を稼動させるためにはそのプロセスのどこをとっても、「誰か」が被曝して死ぬことが前提とされている。「死んでもいいとされる人間」の存在がなくては原発はまわらない。それは明確に、その「誰か」に対する差別であり、殺人であり、原発の問題というのは、誰かの死は当然のことだとする論理を認めるか否か、というところにその本質があるんじゃないだろうか。死んでもいい人間、殺されてもいい人間なんて、どこにもいない。
今年の3月に東北に震災があり、世界中を震撼させた原発事故は目下進行中だ。原発震災後、「トモダチ作戦」などというふざけた名前の作戦の下に陸海空・海兵隊を被災地に投入し、二万人以上の兵士を動員して災害支援・救助にあたったとされている。在沖海兵隊は、「基地問題」が日本社会で政治問題として浮上していた状況で、ここぞとばかりに、海兵隊は必要であるというアピールに震災を利用した。福島における東京電力原発事故、この事態を日米はどう利用したか?トモダチ作戦によって米軍と自衛隊は何を得たか?それは安保の強化だった。米国から派遣されてきた放射能等対処専門部隊は事故処理には関わらず原発から八十キロ圏外で訓練を行っていた。それは核を前提にした戦争の、あるいは核によって攻撃された事態を想定した、絶好の訓練場所だった。防衛省、横田基地、仙台の自衛隊現地司令部には「日米共同調整所」が設置された。これは日本が武力攻撃された場合な どに設置される「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」にある機関だ。これは明確に「有事」の予行演習だ。彼らは軍隊なのだ。彼らが存在している目的というのは殺人なのだ。 軍隊は、人々を救うためではなく、傷つけるために存在している。そのために「災害救助」は都合よく利用された。「国家の危機」を建前に、「災害救助」というもっとも人々が反対しにくい理由を掲げて、軍隊の必要性が喧伝される。そうやって自衛隊も、米軍も、我々の意識の中に当たり前の存在として沈着していく。多くのことが既成事実となって積み重ねられていく。防衛省は今回、自衛隊員が原発事故への対処で死傷した時の「賞恤金」を通常の1.5倍(最高9千万円)、イラクへの侵略戦争やソマリア沖への派兵と同じ額にまで引き上げた。「災害派遣手当」を、「特に危険な場合」(原子炉建屋への上空や地上からの放水)を1日4万2千円(原発から半径10キロ圏内は2万1千円)に増額した。1日4万2千円は、イラク派兵での2万4千円を上回り、自衛隊の手当てとしては最高額だ。「兵隊さんありがとう」と、自衛隊も米軍もマスコミを通じて賞賛される。かたや、すさまじいピンハネと微々たる給料の下、被曝労働者たちがボロ雑巾のように使い捨てられる。「国家の危機」の呼号の下に、国家の持つ暴力の制約がひとつひとつ外されていっている。震災は日米の軍事的な一体化を推し進めた。ここにきて日本政府は南スーダンへの自衛隊派兵を検討し始めている。与那国島への自衛隊基地配置計画が浮上している。与那国への防衛省の概算要求は当初予定の25倍である15億円にまでふくらんだ。自衛隊と米軍は別だなんて言葉のまやかしだ。これまで日本政府に支えられた米軍がどれだけ多くの民衆を殺害したか。野田政権が表明しているのは軍隊と原発の日本からの「輸出」なのだ…。
棄民…沖縄の人々に日本という国家が行ってきた仕打ちこそが棄民だ。国策とされる原発、そして安保。なぜ沖縄にこれだけ異常な密度で米軍基地が押し付けられているのか。なぜ、沖縄の人々が経済格差の中で失業にあえぎ、出稼ぎ労働者として原発に送り込まれているのか。沖縄戦では「本土防衛」のために凄まじい数の人々が殺された。戦後、日本が経済成長をとげるために必要だったのは戦争だった。朝鮮戦争やベトナム戦争の特需によって日本は多大な利益を得たし、沖縄の基地が米軍を支えた。いったい何が変わったというのだろう。そして今また日本の欲望のために、「復興」を体のいい口実として、沖縄が犠牲になっている。何度私たちは同じ事を繰り返すのだろうか。原子力発電所も、日米安保も、差別と無関心がなければ成り立たない。原子力発電所の中で人知れず、くびり殺される日雇い労働者を私たちは「見なくてすむ」。遠い南の島から自らの税金で支えられた軍隊が民衆を殺害するために飛び立つのを見なくてすむし、米軍の性暴力に苦しむ人々の苦しみと悲しみを、「見なくてすむ」。だけど、私たちは見なくてはいけない。人々を殺しているのは、国家の暴力を容認し、同意を与えつづける私たちであるはずだ。血にまみれているのは、私たち自身の手であるはずだ。誰かを犠牲にしてまわる社会はもうたくさんだ。この世界の誰もが、死におびえず、平和に生きる権利がある。原発も、軍隊も、私たちにはいらないものだ。(U)