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一昨年の5月、私の家族は沖縄に転居しました。私は、まだ京都での仕事が残っているので、京都と沖縄を行き来する生活を続けています。そんな生活の中で、最近、印象に残ったのは、次の2つの出来事です。
●「土下座」から「独立」へ
沖縄は、この数カ月、普天間基地の県外・国外移設、撤去を求めて燃え上がっています。
5月4日、鳩山前首相が沖縄に来た際、私も、鳩山を追いかけて、朝の県庁前広場から、午後の普天間、辺野古、名護の4ケ所の抗議行動に参加しました。
それぞれの場所で考えさせられたことは多いのですが、この日、何よりも驚いたのは、夜、帰宅して見た地元テレビ局のニュースの一画面でした。
普天間第2小学校で、鳩山が屋上にあがって基地を視察した際、私たちが抗議行動を続けていた公園のすぐ横の空き地で、一人のお年寄りが、なんと屋上の鳩山に向かって土下座を続けている場面が放映されたのです。私は一瞬、唖然としました。おそらく、戦争体験をお持ちの方でしょう。戦後も、基地に隣接して住み、長年、多くの被害を受けてきたお年寄りが、これだけ裏切られ続けても、なお、首相に土下座をして、必死にお願いしているのです。
今の日本に、首相に土下座をする人などいるでしょうか。このお年寄りは、何故、もっと怒りをぶつけないのか、何故、こんな首相に土下座などするのかとじれったい思いもしましたが、その映像を見ているうちに、ああ、日本という国は、沖縄の人々にこういうことを強いてきたのだということに気がつき、すっかり滅入ってしまいました。
沖縄はもともと琉球王国という独立国でした。日本国に属した期間は1879年から1945年、そして1972年から現在までのわずか104年にすぎません。日本は、その短い間に、沖縄の人たちにこれだけの従属意識を植えつけたのです。
しかし、今、流れは確かに変わりつつあります。4月25日の県民大会、そして5月4日の鳩山来沖時にも、「沖縄独立」の大きい旗が揺れていました。沖縄の人たちが、米軍基地を日本に返すために、日本国首相への土下座を止めて独立を求めた時、我々はどう対応するのか、そろそろ検討しておく時期が来たようです。
●ヤマトンチュが口にした「さよならニッポン」
5月末、森口豁さんの初めての写真展「さよならアメリカ」での体験も忘れられません。
米軍統治時代の沖縄に住み、ジャーナリストとして沖縄の状況を発信し続けてこられた森口さんの写真は、さすがに、沖縄の人々への暖かいまなざしと、米軍への怒りに満ちた素晴らしいものでした。
そこで、復帰1年後の1973年、ナナハンに跨り国会議事堂正門に突っ込んで死んだ沖縄中部・喜瀬武原(きせんばる)出身の上原安隆さんの足跡をたどるドキュメント「激突死」が上映されました。上映後、森口さんが、上原さんが国会突入時にかぶっていたヘルメットを手に挨拶に立たれたのですが、こみあげるものに、しばらく言葉をなくして涙されたのです。そして、今の沖縄の状況にも触れた後、最後に口にされたのが、「さよならニッポン」という言葉でした。
「たった一人のコザ暴動」(森口さん)で国会突入して死んだ上原さんの「祖国への絶望、悔しさ、哀しさ」を語ろうとして、今回、普天間基地問題で、またも、沖縄を切り捨てた日本政府の非情を思い、同時に、ヤマトンチュである自分を恥ずかしく思われての涙だったのかもしれません。
それにしても、ヤマトンチュの「さよならニッポン」という言葉は、我々、本土の日本人一人ひとりに、重く響いてきます。
沖縄に暮らしていると、日々、様々な問題を考えさせられる毎日が続きます。