一定期間更新がないため広告を表示しています
|
|
一定期間更新がないため広告を表示しています
「カタブイ」 twitter : @yujinaya
家族の転勤で名護市に引っ越したのが去年の4月。辺野古埋め立てや基地問題についてはニュースで何となく知ってはいたものの、高江に関してはほとんど無知に近いものだった。
名護で暮らし始めて1ヶ月ほど経ったある日、私はやんばるを辺戸岬に向けてドライブしていた。「海がきれいだなあ」「空気が気持ちいいなあ」なんてことを呑気に考えながら車を走らせていると東村に入った。しばらく走ったところで、民家も何もない山の中にぽつんとテントが立っており「ヘリパッド建設反対」という文字が見えた。興味本位で車を止め、恐る恐るテントへ。ちょうどその時当番であった住民の会のIさんにお話を聞くことになった。
ここは北部訓練場という米軍の施設で、中で何が行われているのか。オスプレイがどういうものなのか。宇嘉川での上陸訓練のこと。住民が反対しているにもかかわらず強制的にヘリパッドを作ろうとしていること。座り込みのこと。国が小学生の女の子を訴えたこと。その時、「これはえらいことが起こっている」と感じた。
それから2ヶ月。日常の中で、高江のことはすっかり忘れていた。
ある日の夕方。ふとテレビに目をやると、沖縄県内外からものすごい数の機動隊を動員し高江のあのテントを撤去するというニュースが飛び込んできた。反対する人たちは抗議のために大集会を行うという。5月に聞いた話を思い出し、ただごとではないやり方に違和感を抱いた。その集会に行こうと思った。私は今まで一度も社会運動に参加したことがなかった。これが人生初の運動参加になった。
炎天下の集会だった。スピーチの内容はよく分からなかったが、みんなで何とかして撤去を阻止しようという思いがひしひしと伝わってきた。日が暮れる頃、いきなり私の車の目の前に駐停車禁止の看板が立てられてしまった。機動隊と集まった人たちの間でひと悶着あり緊張が走った。5月にテントを訪れた時、反対運動は非暴力だと聞いていた。その通り、誰ひとり手を出したり暴力をふるったりする人はいなかった。自分はまだ状況を傍観していた。当時はいきなりルールが都合良く変えられてしまったことへの憤りよりも、自分の車の周りでもみ合いになり車が傷つくことの方がはるかに心配だった。
その夜はいったん家に帰った。いよいよテント撤去が始まるとされた翌早朝、まだ暗い中高江へ向かった。到着すると、機動隊のバスが赤いランプを回しながら何列にも並んでおり、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。ただヘリパッド建設に反対しているだけなのに、凶悪犯罪者を捕まえるような雰囲気だった。検問をしている機動隊員に聞くと、まだ中に入れるとのことだったので、足早にN1表ゲート前に進んだ。すでに大勢の人たちが集まっており、お年寄りも若い人もいた。
夜が明けた。朝の日差しの中、機動隊員の塊が何列にもわたって私たちのいる方向へ進んできた。警官に囲まれるのも初めてで、自分は悪いことをしているように感じた。でも、もう後には引けなかった。機動隊は私たちをN1ゲートに近付かせないようにごぼう抜きで排除し、人間の壁を作り、N1方面に行かせないようにした。それに対して、私たちはガードレールの後ろからN1側に回り込むが、また排除された。そうしているうちに、人が倒れたという声を聞いたのでその場に駆けつけ段ボールで倒れた人を扇いだ。話を聞いていると、どうやら機動隊に首を絞められたり殴られたりしたらしい。とにかく暑い日だった。気分が悪くなり倒れる人が何人も出た。N1ゲート付近にいた若い女性が首を絞められ、倒れた。それを見た女性も過呼吸になり、その2名が救急搬送されていった。青空がきれいな、夏の良く晴れた日。風も通らない炎天下。
ついに、現場のリーダーであった山城博治氏が白旗を上げた。
山城氏は泣いていた。みんなで歌を歌っていた。N1前のテントは撤去され、資材が次々に搬入されていった。その時、ぱらぱらと小雨が降ってきた。まるで空が泣いているかのようだった。
その日を境に、高江の座り込みに参加するようになった。最初は週に1〜2回だったが、気が付けば高江が生活の中心になっていた。裏テントにも行くようになった。同世代の方と親しくなり、山の中に入って抗議活動を行う高江ウッズというグループにも参加するようになった。
……あれから半年以上が経った。相変わらず米軍機は頭の上を飛び回る。米兵による事件・事故は後を絶たない。仲間が何人も逮捕された。オスプレイが墜落した。辺野古の海が埋め立てられようとしている。
うちなーぐちで、にわか雨のことを「カタブイ」という。あの日、高江に降ったカタブイ。カタブイの後にはよく、きれいな虹がかかるという。あの日泣いていた空に虹を架けるため、いま自分に何ができるだろうか。