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2004年・夏。「京都行動」と「大阪行動」は、時を同じくして立ち上がった。
ちょうどそのころ、沖縄・辺野古では、連日、基地建設のための作業員と防衛施設局の職員が押しかけていた。陸上では座って話をすることに施設局員は応じていたが、いつ強行に出るかも知れない。スクラムを組む練習をし、いざというときはいつでも道路に飛び出せる心構えが必要だった。海に作業船が出たときは、言葉の通り、身体をはって止めた。作業船の前に飛び込んだり、カヌーで行く手を阻んだり、資材にしがみついたりもした。それでも少しずつ作業は進む。明日はどんな動きがあるのか、非暴力という方針の中でどのような作戦が有効なのか、どこに訴えれば一番効果的なのか、考え続けていた。“明日も絶対止めよう!”そう確認して一日が終わる。沖縄に限らず、全国から人が来ていた。この基地建設を止める。みんな必死に考えていた。
その中で、いつも頭をよぎるのは、この一大事が辺野古を出るとほとんど知られていないということだった。「本土」においてはほぼ無視を決め込まれているような状況にあった。沖縄戦を経験し、現在に至るまで米軍基地があり続けるこの地に、また新たに基地がつくられようとしている。沖縄の米軍基地からイラクに向けて戦闘機が飛び立っていく。これ以上、世界の人々を殺す加害者にはならないと身を挺して止める人がいる。ずっとずっと基地の犠牲になってきた沖縄。阻止行動の狭間で見えるのはそんな沖縄と、それを通してみる自分たちの姿だった。
この現実は、私たちにとって由々しき問題だった。政府がやろうとしていることは、つまり私たちとイコールだからだ。私がいつも生活を送っている町では、私の親しい友人の中では、辺野古/沖縄のことが全くといっていいほど知られていない。沖縄に押し込めてきた問題は、まさに私たちの問題であって、私たちが声をあげなければならないと思った。
こうして、「辺野古の基地建設計画を止めよう。これは沖縄だけの問題じゃない。私たちの問題です。」という行動が始まった。沖縄から遠く離れた地で反対を言うことは、つまり自分がどう生きるのかということを問い続けることであった。基地反対を言いながら沖縄を何も変わらない状況に置き続けている。基地反対を言いながら、自分の生活を見まわしてみると、日米軍事・経済同盟とは切っても切り離せない状況の中で生きている。米国・米軍の存在によって守られてきた権益や、日本企業の発展による恩恵が私たちの生活に深く浸透している。辺野古の基地建設反対を言うとき、これらの問題をどう考え、どう生活の中で実践していくのか。そんな生き方が問われてきた。答えはそう簡単には見つからない。まだたくさん、学び、考えなければならないことがある。
それでも、私たちは今日もアピールを続けている。そして、出会う人と丁寧に話をしたいと望む。一緒に話をし、考えることが、受け継ぐべき辺野古の闘いの大切な実践であるからだ。
辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動 松本亜季