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本来ならばいつもの京都行動のスタイルで、お集まりのみなさんから一人ひとりメッセージをいただきたいところですが、このようにたくさんの方々が集まり、限られた時間のなかではそれも叶いません。今回はみなさんを代表して、用意してきた文章を読み上げたいと思います。
今日は私たちの呼びかけに応えて、お集まりいただきまして、ありがとうございました。京都行動は、2004年9月から、京都に住む市民や学生が集まり、辺野古に基地を作らせないと、毎週土曜日、三条河原町の街頭で、ビラまきを行なってきました。今年は戦後65年を迎えますが、沖縄戦や米軍占領支配、そして基地の重圧に苦しみ続けてきた沖縄の、その痛みに寄り添おうと、私たちは、それぞれの言葉と行動で、表現してきました。
日本の0.6%の土地に75%もの米軍基地を押しつけられた沖縄の現実。そして、普天間基地のかわりにと、その候補地にされた辺野古、鳩山政権が移設先に検討しているキャンプシュワブ、勝連沖、鹿児島県徳之島、長崎県大村。そしてグアムやテニアン。それらの土地は、かつて日本やアメリカが、植民地にし、あるいは植民地への足がかりとして利用してきた軍事施設のあった場所でした。
たとえば奄美群島に位置する徳之島は、戦後、沖縄と同じように米軍に占領された歴史を持っています。戦後日本の繁栄の裏側には、沖縄や奄美の人たちの、苦渋に満ちた、つらい貧困と米軍占領の歴史がありました。米軍に土地や仕事を奪われ、基地関連の仕事に就かされた人、米兵相手に身体を売って生きてきた女性たち、そして日雇い労働者。沖縄や奄美を襲った苦しみは、基地被害だけに限らないのです。そして今。琉球弧の島々を、利用できるだけ、利用しつくす。そんな歴史が、繰り返されようとしているのです。
あらゆる戦争と貧困の背後には、深い差別と暴力の歴史が刻み込まれています。沖縄に軍事基地を押しつけたのは、他でもない私たち、日本人です。なぜ沖縄戦を止められなかったのか、なぜ基地建設を止められなかったのか、そして15年前、あの少女暴行事件のとき、どうして沖縄から基地を撤去させられなかったのか。それが問われるべきなのは、沖縄ではなく、この日本ではないでしょうか。
15年前、8万5000人が集まった県民大会の席で、当時の大田昌秀県知事は、県民に向かって謝罪をしました。一人の小学生の女の子の、その尊厳を守れなかった責任を、彼は一身に背負って県民大会の壇上に立ったのです。「基地のない、平和な島を返してください」と語った女子高生の言葉。そして沖縄の人々の苦しみ。あの日、沖縄は、もう基地はいらないとはっきり示したはずでした。そして今度は、ヤマトに住む私たちに向かって、次はキミたちの番だと言ったはずでした。
この15年。沖縄から基地はなくなっていません。選挙や住民投票ののたびに、沖縄は何度も何度も基地撤去の意思表示をしてきました。世論調査では9割を超える人たちが、辺野古への基地建設に反対し続けています。昨年夏の総選挙では、基地建設容認派の議員がすべて落選しました。基地はいらない、それが沖縄の声なのです。
これ以上、基地を押しつけない。押しつけさせない。沖縄に生きる人々の苦しみが、一日も早くなくなる日を願って、今日は一緒に歩きましょう。そして、ともに声を挙げましょう。
僕は30歳を過ぎました。自分の人生の半分のところに15年前の県民大会があります。あの大会を見たとき、僕は自分の人生の課題として、ライフワークとして、沖縄に向き合おうと決意しました。だけど、この15年。何も変わっていません。向き合おうとしてきたけれど、本当の意味で向き合えていたのか。今日が基地問題、最後の県民大会であってほしい。そのために僕たちは何をすべきなのか。今日はそれを問いながら、みなさんと一緒に歩きたいと思います。ありがとうございました。(HG)